一朱銀という四角い銀貨を持っています。結構小さいのですが、銀貨なのでもしかすると高いものかもしれません。昔から持っているもので価値や歴史を知らないものってありますよね。
今回は、この50年以上持ち続けているい一朱銀の歴史と価値を調べてみました。
・一朱銀の歴史と分類
・我が家の一朱銀は?
・まとめ
入手した経緯
この一朱銀を入手したのは、今から約50年前、まだ小学生の頃です。当時は、コイン、切手から始まり、メンコ、酒蓋やレッテル(木箱に貼られた野菜や果物のレッテル)等々、趣味として色々集めるのが流行った時代でした。
御多分にもれず、当時の小学生の我々も、自分たちの集められるのもを少しずつ集めたものです。多くの集めたものは、時代とともにゴミになっていきましたが、コインや切手は、今でも宝ものとして持っているものです。
世田谷に住んでいた頃の友達の一人に、お坊ちゃんなのか昔からのものを持っている友人がいました。古い切手やコインを持っていました。
その子と交換で手に入れたものが、この一朱銀です。当時、すごいものを手に入れたとワクワクしたことを覚えています。でも、それから現在に至るまで、その歴史や価値を調べることが無かったのは、逆に不思議なことです。
今回、少し調べようと思い、確認をしてみました。
一朱銀の歴史と分類
一朱銀は、江戸時代後期に流通した長方形の銀貨の一種で計数貨幣である。額面は一分の1/4、一両の1/16に当ります。
計数貨幣とは、一定の形状・品位・量目を持ち、表面にその価値を示す数字あるいは刻印が施され、それによって数字または刻印に示された貨幣価値を保証された貨幣のことです。
一朱銀は、江戸時代末期に文政、嘉永、明治の三期にわたり発行されています。
文政南鐐一朱銀
文政7年(1824年)から通用開始された文政一朱判は、評判が悪く、あまり流通しなかったため、文政12年(1829年)から改めて質が良い素材とする長方形の文政南鐐一朱銀(ぶんせいなんりょういっしゅぎん)の通用開始されました。
嘉永一朱銀
嘉永7年(1854年)に通用開始されたのが嘉永一朱銀です。表面の「一朱銀」の書体と裏面の「銀座常是」の書体は数種類存在し、一朱銀の種類は、この組み合わせで細かく分類されています。
種類は、2系統あり、天保一分銀と安政一分銀書体と関連の深いものがあり、前者を狭義の嘉永一朱銀、後者を安政一朱銀と分類しているようです。
狭義の嘉永一朱銀には、字体により、表9種、裏5種があります。字体の組合わせで45通りが考えられるますが、実際に確認されているのは33種類のようです。同様に安政一朱銀は表9種、裏7種の計63種が知られています。
明治一朱銀
慶應4年(1868年)より翌年(1869年)まで、幕府による貨幣を踏襲した二分判、一分銀、一朱銀および天保通寳を製造しています。このとき製造されたのが明治一朱銀(めいじいっしゅぎん)とも呼ばれる。
我が家の一朱銀は?
我が家の一朱銀はどのタイプ
我が家の一朱銀を確認してみました。
表面
裏面
大きさは、ノギスで測ると 縦15.3mm 横9.8mm でした。重さは2.1gです。
重さは正式には、文政南鐐一朱銀は 2.62g、嘉永一朱銀と明治一朱銀は 1.87gです。重さから文政南鐐一朱銀ではないようです。
次に字体から見てい見ると、銀という字などから明治一朱銀でないようです。最後に嘉永一朱銀の字体と比べてみました。
表は、日本貨幣カタログ2016版です。この表から、表面は、H。裏面は、eと判定しました。
我が家の一朱銀は、嘉永一朱銀のHeタイプです。
どれ位の価値があるの?
前述したように、当時、一朱銀は、1両の1/16です。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では「当時と今の米の値段を比較すると、1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=12~13万円」という試算が紹介されています。
中を取って一両が13万円とすると、一朱銀は、約8,000円です。
現在はどうでしょうか、コインコレクターのホームページで嘉永一朱銀の表と裏のそれぞれの組合せの概ねの売値の記載がありますが、残念なことにHeの組合せは、1500円です。組合せによっては1万円のものも少なくありません。
造幣局の分析品位では、文政南鐐一朱銀と嘉永一朱銀の銀の含油率は、両者とも98%を超えています。現在の売値は、銀の含有量ではなく、希少価値に依存しているようです。
まとめ
残念ながら、我が家の一朱銀は、現在の価値はあまり高いものではありませんでした。でもこの一朱銀に対する思い出などは変わるものではありません。
昔から持っているもので価値が分からないものを持っている人は多いと思います。ぜひ一度調べてみてはどうでしょうか。